カオナシについて





カオナシの扱いについて、私は不満があります。

宮崎監督はこの映画は千尋の目線で描いたとおっしゃっています。
つまり千尋の目で見たもの、千尋が感じたことが全てであり、千尋が見ていないものや興味がないものはいらないはずなんですよね。

ところがですよ、カオナシが登場するシーンを思い出してください。
そのほとんどは、千尋と関係のないところで起こった出来事です。カオナシが豪遊三昧で暴れまわるシーンなんかは、全く千尋は関与していません。

おかしいやん。映画の趣旨からはずれてしまってるやん。

しかも千尋は、カオナシには何の興味も持たず、「私のほしいものはあなたには絶対出せない」とバッサリとその存在を否定しています。千尋にとってはカオナシは本当にどうでもいい存在だったんです。

だから、千尋の気持ちにずっと同調しながら映画を見てきた観客にとってもカオナシはどうでもいい存在になってしまうんですね。

なのに、この映画の宣伝や予告では、カオナシを大体的に取り上げているんですよ。金を出して千尋にあげようとするシーン、大口を開けて走り回るシーンなど、千尋よりもカオナシを宣伝しようとでもするかのように。。。

というわけで違和感を感じるわけです。
千尋にとって重要じゃない人物(?)をなんで宣伝するんだよ〜!
あの世界において千尋はなにを強く思っていたか…
なにが一番大切だったか…
なにを一番心に留めておきたいか…
それは、やっぱりハクでしょう。(両親のことはさておき)


木村弓さんが音楽番組に出演され「いつも何度でも」を歌っておられる時にも、歌のバックにはカオナシが暴れまわるシーンがいつも使われていました。

歌詞を見れば、まるで千尋のハクへの想いを歌っているかのようじゃないですか。
泣ける…(TΔT)

なのになんでそのバックでカオナシ〜ィ?
「その向こうで きっとあなたに逢える」
と歌ってるのに、なんで後ろで醜い姿になって暴れまわるカオナシを映すの〜?!納得いかないよ〜!!


映画の構成から見てもですね、まず、映画の導入部分にかかる曲は「あの夏へ」という曲です。イメージアルバムの「あの日の川へ」のメロディがモチーフとなっています。

「あの日の川へ」っていうのは千尋がコハク川のことを想った曲なんですね。
(ロマンアルバムという本に宮崎さんがイメージとして書かれた詩が載ってますので是非見てください)

つまり、千尋は、幼い頃コハク川に助けてもらったあの夏へと記憶を帰らせていく、というのがこの映画の始まりなわけです。

そして映画の最後に流れる曲は「帰る日」なんですが、これも「あの日の川へ」がモチーフとなっています。
おまけに、主題歌のあとにワンカット映りますが、これはコハク川と流された千尋の靴ですよね。

そう、この映画は千尋とハクが出逢い、別れるまでを描いた映画だということなんです。

クライマックスシーンを見てもそうです。

予告では「千尋は名を取り戻せるのか?両親は元に戻れるのか?」ということを言っていて、いかにもそれが物語の目的であるかのような作りをしていたんですが、それが映画の趣旨ならばクライマックスには千尋が名を取り戻す、もしくは両親が人間に戻るシーンを持ってくるはずですよね。(私はそう思っていた)

でもそうじゃなかった。そんなことはそっちのけで、ハクが名前を取り戻し、二人が心を通わすシーンを持ってきた。しかも、そりゃもう感動的に!

それは何故かというと、「千と千尋の神隠し」は千尋とハクの物語であるからに他ならないからなんです。千尋の目から見て、あの世界にいて一番嬉しい、心に残った出来事であったからあれほどまでに美しく感動的なクライマックスとなったんです。


いや、わかるんです。「千と千尋の神隠し」を千尋とハクのラブストーリーとして宣伝してしまえば観客層が狭まるということは。。。

だけどもうちょっとね、ハクをクローズアップしてくれてもよかったんじゃないかと思うんですよ。「果たしてハクは敵か味方か?!」とかね。。。

少なくともカオナシは、この映画の宣伝においてあれほどの大きな顔ができるようなキャラクターではないということを言いたいのです。


あの、別にカオナシが嫌いなわけではないですからね(^^;
キャラクターとしては好きなんですけど、この映画における位置づけがおかしい、というか、映画の宣伝の仕方がおかしい、と思うわけなのです。


DVD(ビデオ)が出る時にまた宣伝するだろうから、その時は今度こそハクを前面に出してほしいぞ!パッケージにも登場してほしいぞ!!



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